千年祀り唄
―無垢編―


5 うたかた(後編)


「若様、ご無事でしたか」
城に戻ると早速、清衛門が駆け付けて来た。
「村は半分が炎に呑まれた。怪我人も大勢いる。手の空いている者は村へ降りて手伝いを……」
「いかに若様のご要望とて、それは叶いませぬ」
「何故だ?」
「先程の噴火で生じた地震で、西側の城壁が倒壊し、城内にも負傷した者が出ております。馬小屋の柵が壊れ、馬達も逃げ出してしまいました。崩れた城壁と壁を大至急修理しなければ、被害が広がってしまいます。手の空いている者達は皆、そちらの作業に回っておるのです」

城で働いている者はもともとさほど多くはない人数だ。家老の言うことはもっともだった。
「ならばよい。このおれが行く」
「若様!」

空は灰に覆われていた。そして、その灰が地面に、畑に降り積もった。熱い灰だった。それを吸いこむと肺をやられた。火は三日三晩燃え続け、ようやく消えた。家を失った人達を若宮は城へ連れて帰った。


「何もないが、ここなら雨風はしのぐことができるだろう」
だが、そんな若宮の好意にさえ、不平を言う者が現れ始めた。
村に残された者達は城に行った者達が特別な待遇を受けているのではないかと疑念を抱き、城に来た者達は大勢が同じ場所で過ごさなければならない窮屈さからいざこざが絶えなかった。


「若宮様、こちらにおいででしたか」
「どうしたのだ、清衛門、血相変えて」
「とにかくすぐにお越しください。村の者達がとんでもないことをしでかしたのです」
「とんでもないこと?」
書き掛けていた筆を置き、僅かに眉を上げて訊く。
「食料をよこせと言ってきかないのです。城の者だけがたらふく食っているのだろうと……」

実際、城でも食料は不足していた。噴火は収まって来たが、いまだに粉塵が上がり、その度に灰が積もる。畑は壊滅的な被害だった。しかも井戸の幾つかは完全に干上がってしまった。これではほぼ稲作の復興は難しいだろう。畑を作るにしても水がなければ作物は育たない。それどころか人でさえ、水なしに生きて行くことなどできないのだ。そうなれば、この土地を捨て、何処か他所の土地へ移るか、当座の食糧と水を確保するために近隣の村へ支援を頼むか。もしくは、力ずくでそれらを奪って手に入れるか、選択肢は限られていた。

「そうですとも。ここに余分な食糧などありはしない。我々とて女子どもに配るのがやっとの状況だ。それを奴らはわかっておらん。よりによって、連中は鳥や馬を襲って食ったのです」
「食った……!」


それはおぞましい光景だった。痩せて血走った目をした人間達が鳥の羽を毟り、馬を引き裂いて生肉を喰らっている。まさに鬼畜だ。
「おまえ達……」
若宮は絶句した。しかし、そんな彼を見た村人達は口々に叫んだ。
「まだ持っているぞ」
「そうだ。こいつらはまだ食料を隠し持っている」
「おれ達には食わせねえつもりなんだ」
「出せ! もっとよこせ!」
「おら達にも食いものを……」

若宮に掴み掛ろうとした男の手を清衛門がなぎ払った。
「触れるでない!」
痩せて骨張ったその指はあの妖の鈎爪に似ていると若宮は思った。だが、あの女の手の方がしなやかな美を讃えていた。それに対して、今目の前にいるこの男の手は、醜いただの骨でしかない。だが、人は皆、その醜い骨でできているのだ。生きたいという執念を燃やす呪いの骨を肉の下に隠して……。

「おまえ達、それほどまでに生きたいか? それほどまでに喰いたいのか?」
たとえそれが何であったとしても、彼らは貪り食うだろう。しかし、それを止めることができるだろうかと若宮は思った。

「これだけの肉を食ったのなら、しばらくは腹持ちするだろう。今、父上が隣国へ支援の頼みをするために出向いている。良い知らせが来れば、おまえ達の暮らし向きにも変化があろう。だから、もうしばらく我慢していてくれ。そうでないと、おまえ達をこのまま自由にしておくことができなくなる」
若宮の言葉に皆は頷き、渋々納得した。

「若様、よろしいのですか? このような暴挙をお許しになって……」
清衛門が不服そうな顔で訊いた。
「彼らとて悪気があった訳ではないのだ。土を食み、土壁を削って藁を食み、周囲の虫や獣を取り尽くし、皆が朝露をすすっているような始末だ。今度だけは多めに見よう」
そう言うと若宮は荒らされた厩舎の後片付けを始めた。
「お止めください。お着物に染みが付きます。そんなことは我々が致します故」
「手伝いの手は一人でも多い方がよいに決まっている。それに、染みが付いて困るような着物ならおれは着ない。今日からは村の者達と同じ着物にする」
「何ですと?」
清衛門が目を剥いた。
「絹の着物は売って食料に変えよう」
「若様!」
「止めても無駄だ。もう決めた」


それからまた数日が過ぎた。
「あ、若様だ!」
「遊ぼう!」
「食べ物持って来てくれた?」
彼の姿を見るとすかさず何人かの子ども達が駆けよって来た。が、どの子も皆、手足が細く、目ばかりがぎょろついて、頭ばかりが大きく見えた。

「ごめん。今日は何も食べ物を持って来れなかったんだ」
「わかってる。お城も大変なんだろ?」
「いいよ。お腹減ってるの慣れてるし……」
「それより、ねえ、何かして遊ぼうよ」
子ども達は屈託がなかった。
「ああ、そうだね。何して遊ぼうか」
そう言って若宮は笑った。が、いつも見掛ける子どもがいないことに気づいた。

「しのはどうした?」
「あいつは……売られた」
しのはまだやっと十になったばかりの大人しい娘だった。
「正吉の姿も見えないようだが……」
いつも若宮の姿を見つけると、真っ先にやって来て袖に纏わりついていた小さな正吉。

――あした三つになったら、ばばちゃんのとこつれてってもらえるんだ

そう言ってうれしそうに笑っていた。

――あした、三つになったら……

「正吉は…………死んだ」
兄の十郎が言った。その顔は青ざめていた。
「何かあったのか?」
若宮が訊いた。
「わかんねえ。でも、おっとうが言うには正吉は死んだから森のばばちゃんのとこ行った
って……」

――森のばばちゃんのいるところ……。

それが意味するものを若宮は知っていた。子どもは葬られたのだ。妖の森に続く道の果ての井戸に……。

それは、深い井戸だった。付近を通り掛かると決まって子どもの泣き声が聞こえるという。捨てられて、葬られた命の唄を、風が奏でているのだと……。

「ちがう! 正吉は食われたんだ!」
突然、五介が大声で叫んだ。
「食われた?」
時が静止したように風が止んだ。
「正吉は、大人達に喰われた! おれ、見たんだ。ほんとだよ。そんで次はだれ食おうかって話してた。子どもの肉はまだ柔らかくてうめえって……次はきっとおれが食われるんだ」

子ども達の間に動揺が走った。
「それ、ほんとなの?」
「大人はあたい達を食うつもりなの?」
村から子どもが消えている。そんな噂を聞いていた。娘は売られ、幼子は捨てられて、口が減らされた。が、人が人を食うとは尋常ではない。そこまで村人は追い詰められていたのか。若宮は愕然とし、草の葉一枚無くなってしまった田畑を改めて見回すと、この村の行く末を案じた。


それから、城に戻った若宮は売れる物は何でも売った。母の形見も氷室家に伝わる家宝も何もかも……。しかし、それでも村全体を救えるほどの食糧を得ることはできなかった。
「せめて雨が降ってくれれば……」
せっかく長い手紙をしたためて、南方から取り寄せた野菜の種。しかし、その栽培はうまく行かなかった。芽が出ても育つ前に飢えた人間によって全部毟り取られてしまったからだ。それでも若宮は彼らを責めなかった。

「慈悲深いにも限度があります」
そんな若宮を見て、ついに家老の清衛門が進言した。
「連中は若様のやさしいお気持ちにつけ入っておるのです」
「だが、放っておく訳には行くまい」
「甘過ぎます!」
清衛門が強い口調で言った。
「そうかもしれない……。だが……」

――その時、おまえはどうする?

「おれは信じたいんだ。人間の心は初めから荒廃している訳ではない。その証拠に、子ども達の目は皆純粋だ。澄みきった空や水のように……。そこに濁りが生じなければ、ずっと純粋のままでいられる。おれはそう信じていたい……」
「若宮様……」
その感情はずっと深い場所に沈んで見えなかった。
若宮が声を荒げるような場面は誰も見たことがなかった。よくできた性格だと言ってしまえばそれまでだが、名前の由来のこともあり、母の死に際でさえ涙を見せなかったこの少年のことを、何となく近寄り難い存在だと敬遠している者も多かった。しかも武士や町民、農民に至るまで平等に扱われることに対する反感も根強く残っていた。

「若宮様、これだけは固くご忠告申し上げる。どうか甲冑と馬を売ることだけはお止めください」
家老が言った。売れる物はほとんど売り尽くしてしまい、他に何かないかと思案している若宮に釘を刺したのだ。
「もしもの時に馬や甲冑がなければ戦うことすらできませぬ。ましてや槍や刀、弓矢などの武具も同じことですぞ」
「わかっている。そこまで愚かな真似はせぬ」
そう言う若宮の言葉に清衛門はほっと胸を撫で下ろした。

「だが、今は戦国の世ではない。むやみに戦いを仕掛ける方がよほど愚かだとおれは思うがな」
遠く雷鳴を聞きながら若宮は独りごとのように呟いた。
「若様」
「冗談だ。どれ、雨が降るだろうか」
そう言って彼は開けたままの襖から空を見上げた。
「そうですね。降ってくれるとよいのですが……」
だが結局思わせ振りな雷鳴は消え、雲は山の向こうへ去ってしまった。
「降らぬか……」
先日、森の奥から持ち帰り、せっかく母の墓の脇に植えた桔梗も根付く間もなく枯れてしまった。
「雨さえ降ってくれれば……」


その日、若宮はふと気になって千代の家に向かった。いつもはしんとしているその家に人が寄っていた。
「まさか……何かあったのか」
戸口に近づいた時、その戸が開いて背中を丸めた男が出て来た。その手にはしっかりと何かの包みを抱えている。若宮の顔を見ると、その男は驚愕したように目を見開き、僅かに後ずさると、顔を背けて一目散に道を駆けて行った。
「何をそんなに慌てて……」

中にはまだ数人の村人がいて、何かを取り囲んでいた。
周囲には異臭が立ち込めている。
「千代……」
その声に振り返った者達の目が、怯えたように震えていた。隙間から見えたのは千代が着ていた着物の端だ。だが、そこに千代の姿はない。あるのはただの赤い肉塊だけだ。

「千代は死んだのか? それとも、おまえ達が手に掛けたのか?」
静かな声で若宮が訊いた。
「おらは……おら達は生きねばなんねえだ」
「千代は病気だった。どうせ長くは生きらんねえ」
「どうせ厄介者になるなら、いっそおら達の役に立ってもらわねば……」

透き通るような千代の歌声が空に響いた。

――若様

野苺を含んで笑ったあの愛しい娘の声はもう聞けぬのだ。その笑顔も、その歌声も、二度とこの世に響くことはない。

――大人になったら若様はもう村に来てくださらないのかと……

(千代……)

――正吉は大人に食われたんだ!

(大人になったら……おれも……)


「前髪を落とさないですと? 何を今更……。明後日には元服の儀を行うのですぞ」
「おれは髷など結わぬ」
「若様!」
「そんなことをしなくても、おれはおれだ。何も変わりはしない」
「しかし……」
そこへ隣国へ交渉に出掛けていた殿の一行からの伝言が届いた。


「何? 父上が亡くなられた?」
それは凶報だった。氷室の一行が隣国からの帰途、突然、何者かに襲撃され、殿が命を落としたと言うのだ。
「襲ったのは何者だ?」
「それが……隣国の手の者だと……」
「まさか……」

交渉は上手く行っていた。隣国では蓄えの中からそれ相応の米や野菜を村のために供与してくれるということになり、早速当座の分をと持たせてくれたと報告があったばかりだった。隣国の当主は慈悲深く、村の災いを我が身のごとく憂いてくれたと……。だが、実際は、その窮地につけこみ、恩を売り、一気に攻め滅ぼそうという魂胆だった。氷室ははめられたのだ。

――人間とは何と浅ましく意地汚いものだ

「若様」
「半鐘が鳴っていた。また噴火が始まったのだ。赤くどろどろとした龍脈が、灰色の空を染め、若い当主の胸の奥に浸透して行った。

――人は無垢ではいられない

「おれは……」
村ではどんどん子どもが減って行く……。

――次はおらが食われるんだ

隣国は武器を揃えて攻め込もうとしていた。若宮の父が交渉の末に分けてもらった食料はついに村へ届くことはなかった。そして、あろうことか殿の死体は曝し物にされた。
災害で疲弊した村。当主は若く、守りも手薄だ。領土を広げようとする隣国にとってはあまりにも都合がよかった。


「戦の支度を……」
若宮が言った。
「民は救わねばならぬ。おれは氷室家の当主なのだから……」
「若様」
「おれは今日から鬼となる。氷室の城主、鬼若となり、民を守る」
開け離れた襖の向こうに見える山の頂から赤い竜が降臨し、鬼若の顔に反射した。そして、熱い炎の風が長い黒髪を龍神のごとく波立たせた。

「鬼若様」
気迫が皆を圧倒した。優しい性格をしたこの若者のいったい何処に、そのような覇気が潜んでいたのか。

敵軍の鬨の声が聞こえた。
城に残された者の中で戦える者は少ない。ましてや騎馬は二〇騎にも満たないだろう。敵の軍勢はおよそ三倍。あまりにも分が悪かった。が、誰も不平を言う者はなかった。決してあとには引けぬ一戦であり、赤銅の鎧を纏った鬼若の立ち姿に家臣達の士気は一段と高まった。

そして、三日三晩に及ぶ攻防の末、地の利に精通する氷室が勝利した。勝因は勇猛果敢に先陣を切り、無駄のない剣さばきで敵を蹴散らし、突破口を開いた鬼若の英知があってこその勝利だと皆が讃えた。

それはとても初陣であるとは思えない見事な戦いぶりだった。熟練の兵士でさえ舌を巻くような豪胆な攻撃と冷静な判断。返り血で鎧が赤く染まり、夕日の中に立った彼を見た者は、皆一様に震え上がった。

「鬼だ」
「あれは鬼になったのだ」
火のごとく赤く燃えた両の目と、骨をも砕く父の形見刀を振るう若き鬼。

もともと若宮には剣の才があった。だが、あえてそれを実践で使うことを拒んで来た。使えば誰かの命を奪うことになるからだ。

だが、その躊躇いが民の心を蝕み、醜悪な争いへと駆り立ててしまったのかもしれない。統治する者にはそれだけの責任を負う覚悟がなければいけなかったのではないか。だからこそ、剣を習い、儀を習い覚えて来たのだと、彼は気づいたのだ。
だが、そんな心の葛藤を知らぬ者達は、鬼若の名に象徴される表面の強さに魅かれ、称賛を贈った。


「若様だ」
「鬼若様がお帰りになられた」
村人達が歓声を上げて彼らを迎えた。
「米だ。それに芋や葉物もある。それに反物もだ」
戦利品の山を見て、人々はまた歓声を上げた。
「若様がいれば無敵だ」
「もう飢えることもねえ」
村人達の喜ぶ顔を見て、鬼若はほっとした。これでもう子ども達が犠牲になることはないだろうと……。


しかし、翌年になっても村は去年のままだった。あれほど長く思えた噴火も収まり、妖の森には少しずつ青葉が芽生えていた。

が、村では田んぼも畑も去年と同じ。荒れたままだ。そして、相変わらず娘は売られ、子どもの数は減って行った……。
今年産まれたばかりの赤ん坊でさえ、何故かすぐにいなくなった。
そして、人々は口を噤んだ。


その夏は日照りが続いた。そして、ついに大川の水も枯れた。
「雨が……」
人々は皆、空を見上げて呟いた。
「雨さえ降ってくれれば……」

が、一方では堕落した人間達が酒盛りをしていた。
「おら達にはえれえ神さんが付いているからな」
「どんなに日照りが続こうと構やしねえ。城主様が他国から取って来てくれるからな」
「ああ、何といってもおれらにゃ鬼が味方に付いてるんだからな」
とっくりの酒をぐびりと飲んで、血の滴った肉を摘む。

「おっとう。おっかあが呼んでる。もうすぐ赤子が産まれそうだから、水を汲んで湯を沸かして欲しいんだと」
弥助が言った。
「湯だって? 水もねえのにどういうつもりだ? 薪だってねえんだぞ」
「だっておら、産婆の婆様に頼まれて……どうしていいかわかんねえから……。湯がねえと困るって……」

「赤子か……」
そこで飲んだくれていた男達がてらてらとした唇を舐めて顔を見合わせた。
「なあ、おっとうってば……」
子どもが袖を引っ張るが、一向に腰を上げようとしない。

「水が必要なのか?」
戸口に男が立っていた。若宮、いや、今は鬼若と名を変えていた氷室家の城主だった。
「ああ、そうだ。けど、もう村の何処を探しても水なんか……」
「水ならある」
「ほんと?」
「ああ、おれが運んでやる。だから、おまえは早くおっかあのところに戻って安心させてやるがいい」
「うん」
子どもはうれしそうに走って行った。


鬼若は急いで城へ戻った。
途中、菩提樹の木の向こうに影が見えた。
家老と騎馬の指揮官が次の戦の相談をしている声が聞こえた。
「まだ戦を仕掛けようというのか。もう酒も食料も十分過ぎるほどあるというのに……」
不足しているのは水だけだった。が、人間の慾というものは取り留めがない。鬼若は黙って桶を持つと、栗馬に跨って森の奥まで行くと、岩から湧きだしている水を汲んだ。それからまた、急いで村まで取って返し、弥助の家に向かった。

が、そこに着いた時、赤子は既に息絶えていた。
死産だった訳ではない。そこに群がる浅ましい人間達によって葬られたのだ。心に過る異形の影……。

「何故だ……」
弱き者の魂を踏み砕き、その上に胡座をかく者達も、産まれ落ちた時と死に行く時は弱者でしかない。
「それなのに、何故……」
掬っても掬っても毀れ落ちる砂のように、人間もまた毀れ落ちて行く存在……。そして、一度堕落してしまった人間は二度と人に戻ることはない。ただひたすらに獣の道を歩むだけ……。

「獣か……」
鬼が呟く。その背後を駆けて行く子ども達。しかし、それはもう彼が知る清らかな目をしたあの子ども達ではなかった。弱い者を狩り、石を投げつけている集団の……。

「何故人は……人を……!」
その手から滑り落ちた桶の輪組が弾け、周囲に水が散った。

「雨が……」
誰かが言った。
「そうだ。雨さえ降ってくれれば……」

干乾びた土の上に立つ干乾びた心の人間達……。

「雨さえ降れば、本当に何もかもうまく行ったのか。もう飢えることもなくなったというのに……。何故おまえ達は人を食うのだ。そして、何故、人は……。おれは鬼になれぬ! おれは……!」

その手に握られていたのは銀色に閃く細い三日月……。

「干乾びた地には水をやろう。もう一度無に還れ! 産まれる前の無の世界に…。この世のすべては泡沫の中に……。おまえ達すべての魂がもう一度人間として生まれ変わるために……」

空が光る度に命が消え、雷鳴が聞こえる度に男の罪は深くなって行った……。

「雨が……」
雨粒が頬に当たる。
弾けて空に消える。
まるで一瞬たりともその手に形を保つことのできない泡沫のように……。

――人は無垢なままではいられない

「おれは……それでも……」

降りしきる雨……。
空は重く、灰色に包まれていた。

そこに現れた女の影。
白い着物を来たその女は、ゆっくりと骸に近づいた。
そして、伏した男の頭に触れる。それはあの巨大な蜘蛛の妖の手だった。

――嘆くな

流れる涙をそっと異形の指で拭ってやりながら呟く。

――おまえは今、真の無垢になったのだから……

こびり付いた赤い血を、雨が洗い流し、傷だらけになった心を女の糸が念入りに紡いだ。
そして、男はもう一度生きるための役割を得た。


――むく
――いっしょにいこう
――むくといくよ


そこには昔、小さな城が建っていた。三日月のように少し湾曲していたその丘の上に……。

――むく?
――なにをみてるの?
――どうしたの?

しかし、男は答えない。
ただじっと、そこに吹く風の行方を追っているだけ……。

青い空と草原。
一面の緑の中で、赤い実を付けた植物が小さな篝火のように揺れていた。

――むく
――これはなに?

「野苺……食べると甘い味がする」

――ほんとだ。あまいね
――あまい
――おいしいよ
――むくもたべる?

「ああ……」

――むく
――どうしたの?
――どうして泣くの?

「わからない。でも、何だかとても懐かしい気がして……。何だかとても……」

風が泡沫の夢を運んでいた。
富士は今でもそこに聳え、
その裾野には、妖の森が広がっていた。
そして、そこには今も優しい妖の女が住んでいるのだろうか。

頭上で鳥が囀っていた。
愛らしい声だった。
それは何処か懐かしい声だと無垢は思った。

「行こう」
無垢はそう言うと踵を返した。

――いこう
――いこう
――どこまでもいくよ。むくといっしょに……